フィリピンのバギオ

フィリピン 高原の町「バギオ」の紹介

 

■・高原の町「バギオ」は、ルソン島の中部にある都市です。
・標高1500mの山岳地帯にあり、年間の平均気温は20℃~26℃。暑い国フィリピンでは大変過ごしやすい町です。
・ここはフィリピンの"軽井沢"、夏の猛暑には金持ち達がこの町を避暑地として利用しているほか、マニラ政府も3月~5月の夏は、一時的にこの街に政府機関を移転するほどの人気の町です。

 

・人口は、約35万人(2015年))
・7つの大学をはじめ、多くの語学学校が有り、いつも街は若い学生達で賑わっている。
・学校に通う日本人の留学生達も大勢いる。しかしこの町が戦前多くの日本人が暮らしていたことを初めは知らない。やがてバギオが日本人の悲しい歴史の町であることを知る。
実は、私も知らなかった。
・フィリピンが、あまりにも暑いので避暑地気分でバギオを訪れ軽井沢気分でいた。
・この町の日本人の悲惨な歴史については後でわかったことである。
★・バギオは日本人の子孫たちの悲しい歴史の町です。

 

■・20世紀の初めのアメリカ植民地時代、マニラの暑さに耐えかねたアメリカ人達は避暑地を求めてバギオにやってきた。高原の気候に満足したアメリカ人は、陸軍の「ケノン大佐」に命じて高原の開拓を進めた。
・当時は、マニラからダクパンまでは鉄道が走っていて、ケノン大佐は、ダクパンからバキオまでの道路を建設することにした。
・しかし、バギオまでの山岳道路は難工事の連続で、雇ったフィリピン人や中国人労働者では無理であった。

 

・大佐は、日本人の勤勉さに着目し、日本人の移民達にバギオまでの道路建設を委託した。
・依頼された日本人達は、劣悪な労働条件のもと、多くの犠牲者を出しながら峻烈を極めた難工事を貫徹し、この山岳道路を完成させた。(1905年・明治38年)

 

・バギオ高原に通じる難工事の道路を 今は大佐の名前をとって「ケノン道路」と呼んでいる。
・フィリピンでは、日本人が造ったとして日本名の「ベンゲット道路」として知られている。

 

 

■・フィリピンと日本
・当時、難工事を請け負った日本人は、応援部隊として沖縄の若者達を道路工夫としてバギオに呼び寄せた。
・そのかいもあり道路は1905年(M35)に開通した。しかし日本人工夫2,300名中 700名の犠牲を払った難工事でもあった。

 

・道路建設に従事した日本人は、その後、ダバオのマニラ麻栽培やマニラ・セブなどに移ったが、一部は現地のフィリピン人と結婚し、バギオに残り町の開発や事業に従事した。
・その頃のバギオの目抜き通りの商店街は、ほとんど日本人が経営をしていたほどである。

 

・移住した日本人はよく努力し、マニラやダバオやバギオで事業に成功して、フィリピン社会における日本人の地位を確立していった。
・その繁栄は、太平洋戦争前にはピークに達した。しかし、日本軍のフィリピン侵出とその後の敗戦で事業で築いた地位と繁栄は暗転した。

 

 

★敗戦後、戦時中の日本軍の残虐行為や卑劣な行為から、現地フィリピン人達の怨念は凄まじく、戦後の日系人とその子孫たちはフィリピン人からの激しい攻撃にさらされた。
・日本に戻れないバギオの日系人達は、バギオの山奥に逃げ込み、生命の危険に怯えながら飲まず食わずの生活を強いられた。
・その悲惨な生活は長く続き、30年後の1972年バギオに赴任した「シスター海野」の日系人救出活動が始めるまで続いた。

 

・いま「バギオ」に住む日系人は数少ない。フィリピン人のほか韓国人が多く住んでいる。
・フィリピンには、日本人とフィリピン人の悲しい出来事があまりにも沢山ある。そのことを多くの日本人は知らない。