フィリピンのダバオ

日系人が暮らした町 -ダバオ-

■・マニラ空港から双発機で約2時間ほど乗るとミンダナオ島のダバオに着く。

・ダバオは、マニラ・セブにつぎ、フィリピン第3位の都市です。
・この街は、フィリピンで一番治安のある安心して暮らせる街として知られています。
・街の道路や橋なども整備が行き届き、ゴミのない清潔感のある街です。

 

・スペイン人のダバオ支配は遅く19世紀頃から始まります。それまでは先住民やイスラム教徒が集落で昔ながらの暮らしをしていました。
・この街が発展したのは20世紀初頭、日本人によるアバカ(マニラ麻)栽培の農園経営が始まりです。
・当時、約 2万人の日本人が住んでいました。

 

・ダバオ市は、ミンダナオ島の南に位置しダバオ湾に面した国際港湾都市です。
・国際空港を持ち、フィリピン南部の政治・経済・文化の中心都市でもあります。
・人口は、約153万人(2014年)でしたが、現在は200万人近くいると思われます。(2023年)
・ダバオ市の行政面積広く、都市としては世界最大級の行政区を持ちます。
・市街地は10%、植林地や熱帯雨林地は50%、農業用地は40%で、バナナ、パイナップル、コーヒー、ココナツを栽培する巨大プランテーションで占められています。
・街の東対岸には、サマール島の観光地があり、西には雄大なフィリピンの最高峰のアポ火山があります。

 

★ダバオの気候
・ダバオ市は太平洋から吹く風は東側の山脈で守られ、台風が発生する海域より南側に位置するため台風の被害も少ない街です。
・気温は20度~32度で安定していて、降雨量、気温、湿度、気圧なども年間を通して気候の変化が少く、穏やかで暮らしやすい街です。

※この街の治安は良く、台風も少なく、町にゴミもなく、フィリピンの中では一番暮らしやすい街だと思います。

・空港からHOTELまてタクシーに乗ったが、噂通り運転手に"ボラレル"こともなくメーター料金でチップを取られることもなかった。フィリピンでは珍しいことです。
・フィリピンにもし住むならダバオが一番安心して暮らせます。定年後の日本人移住者も多く住んでいます。

 

 

■・ダバオと日系人  日本人の町

・戦前、この町で多くの日本人が暮らしていました。
・日本人は、ここで「マニラ麻」の栽培をして富を築きます。
・20世紀の初め、日本人の太田恭三郎は、沖縄県出身の大城孝蔵とともに、農園と工場をあわせた「太田興業株式会社」を設立し、アバカ(マニラ麻)とココナツのプランテーションを作り上げ、このダバオで事業に成功しました。
・1938年には、ダバオには1万8千人の日本人が住んでいたと記録されています。
・成功した理由
①生産される「マニラ麻」が丈夫で、船舶用のロープの原料として飛ぶように売れこと。
②勤勉な日本人労働者達をマニラとバギオから呼び寄せて使ったことにあると思われます。

※日本人労働者達は、マニラとバギオを結ぶ高原道路「ベンゲット道路」工事に当時多くの日本人が従事していましたが、過酷な工事に疲労困憊した彼らを太田はダバオに誘いマニラ麻の農園で働かせた。
※フィリピン人達は、温厚だが、のんびり屋で時間にルーズで積極的に働くという意識が少ない人々が当時多かった。

★-太平洋戦争中-
・ミンダナオ島での米軍との戦いは、ダバオが最激戦地となった。
・日本の敗戦が迫ると、日本軍人と日本の民間人は、ダバオの山岳部に退却して戦った。
・しかし戦闘やゲリラの襲撃、病気や飢餓で、兵士・民間人に数万人の死亡者を出してダバオ戦は終わった。
★-戦 後-
・生き残った日本人は、米軍やフイリピン人の反日感情を恐れて、日本人である証拠を消し相当の年月がたつまで、フィリピン人としてひっそりと暮らす。
・そこには、悲惨な状況下におかれた「日系人の悲劇の生活」がありました。
・現在は、ダバオの「ミンタル」という町で、その子孫たちの日系人に会うことができます。

 
 ダバオ ギャラリ-