4 留学時代

    -留学時代-



■・アテネオ校を卒業し、サント・トマス大学医学部を修了したあと、フィリピンで十分生活ができる基盤ができたにもかかわらず、リサールは父の反対を押し切って、スペインのマドリッド留学を希望した。
・1882年5月、兄妹達からの支援を受けてマニラ港に停泊していた「エル・サルバドル号」に乗船する。・ヨーロッパへ旅立つ乗客は、彼以外全てヨーロッパ人である。
・1882年6月、仏国のバルセロナに到着した後、最終目的地であったスペインの首都マドリードに到着した。
・同年10月に国立マドリード大学の医学部と哲文学部の両学部に入学し、大学でリサールは猛烈に勉強する。
・1885年6月に、マドリード大学で哲文学博士と医学士の資格を取得した。
・1885年7月から1886年1月まで、フランスのパリ大学でフランス語と眼科学を学び始めた。
・この時、フランス革命の「人権宣言」をタガログ語に翻訳している。

 

・1886年2月から1887年5月までドイツのハイデルベルク大学、ライプツィヒ大学、ベルリン大学で引き続き、医学と社会学を学び、その時ドイツ語で書いた社会学の論文が高く評価されドイツ国籍の取得を薦められたが、これを固辞している。

 

★ 1887年7月3日、ヨーロッパを離れ8月5日に5年ぶりにフィリピンに戻った。リサール26歳です。
・フィリピンに帰国後は、出身地のカランバ村で医者業を開業し、不治の病といわれた母親の眼病を見事に治した。

 


■・Noli Me Tangere 初版本
・ドイツ滞在中の1887年2月21日ベルリンで、小説 『ノリ・メ・タンヘレ (Noli Me Tangere)』(我に触れるな)を執筆出版した。
・この本は、ヨーロッパの人々に読んでもらいたいとスペイン語で書かれてある。

 

 

-再び留学へ-

■・しかし、出版した小説 『ノリ・メ・タンヘレ』 が、反植民地的だとフィリピンのスペイン支配層から問題視された。
・やがて彼は、フィリピンの彼の存在が親族を危険にさらしていることに気づき、フィリピン総監督の国外退去の勧告を受けいれて、1888年2月3日再びヨーロッパへと旅立つ。リサール27歳です。

 

・高等教育を身につけると人生に苦労するのではないかと考え、平穏で経済的にも恵まれる農学を専攻させたのですが・・・・母親の心配が当たりました。

 

■・二度目の留学地はイギリスだった。
・今度は前回とは異なり日本とアメリカ経由の北米路線である。
・日本には45日間ほど滞在してサンフランシスコに入港。
・その後、大陸横断鉄道でニューヨークに到着。
・1888年5月16日にイギリスに到着した。

 

・ロンドン到着後、リサールは大英博物館をはじめイギリス、ベルギー、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究する。
・それは、植民地化される前の祖国を知ることで、フィリピン民族の理解を深めることにあった。

 

・ロンドン図書館では、1609年出版の「フィリピン諸島誌史」を発見。
・スペイン人がフィリピンに入植する前のフィリピン社会や文化が書かれた書物であり、研究の日々が続いた。研究を続けるうちに、フィリピン民族は、けして劣った民族ではなかったことを確信し祖国を敬う気持ちがさらに高まり、強く解放を願う気持ちになっていく。

 

★1889年2月、マドリードに滞在していたフィリピン出身者の「ロペス・ハエナやデル・ピラール」らと共に、半月刊のスペイン語新聞 『ラ・ソリダリダッド (団結)』の創刊に加わり、「プロパガンダ運動」に参加する。

 

 


■・1891年9月18日に、ベルギーで二作目の小説 『エル・フィリブステリスモ』(El Filibusterismo)を出版した。この本もスペイン語で書かれている。
・フィリピンの改革を目指して書かれた内容は、絶妙にして繊細な言葉で、深遠かつ卓越した思考と文体で、文学史上の傑作として注目された。

 

■・『エル・フィリブステリスモ』 の出版後、リサールはフィリピンに帰国しようと決意し、1891年10月18日にマルセイユを発ち祖国フィリピンに向かった。

 

・しかし、フィリピン官憲がリサールの反植民地主義を危険視したため、フィリピンに帰国することができず11月19日に香港に到着する。
・リサールは、香港で眼科医を開業し、生活も安定したが望郷の念はおさまらず、翌年1892年6月15日にフィリピンに帰国した。

 

・帰国の決意を、友人L・マルケスに宛てた手紙にはこう書いてある。

 

・私は自分のしていることに悔いはありません。生まれ変わったとしてもやはり同じことををするでしょう。・それが私の義務だからです。
・人は自分の義務と信念のため死ぬべきです。祖国の将来のため私は喜んで命をささげます。

 

■・帰国後、リサールは「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟」を組織して活動を始める。
・「ラ・リガ・フィリピナ」の思想的立場は、急進的な革命を望むものではなく、スペイン治下のまま暴力を用いずに穏健な改革を望むものであった。
・しかし、この方針をも危険視したスペイン植民地政府は、1892年6月26日リサールを逮捕した。

 

・1892年7月7日に、総監督「エウロヒオ・デスブホル」は、所持品の書類の嫌疑でリサールをフィリピン南方のダピタンDapitan)へ、流刑することを決定した。

『ノリ・メ・タンヘレ』 我に触れるなとは

■・ところで問題となった小説 『ノリ・メ・タンヘレ』 ラテン語で「我にふれるな」 とは何でしょうか。
・この言葉は、聖書「ヨハネによる福音書」に書かれている言葉です。
・マグダラのマリアは、復活後のイエスに最初に会った女性ですが、まだ完全に復活を遂げていないイエスに触れようとした。
・マグダラのマリアに、復活したイエスから「ノリ・メ・タンゲレ Noli me tangere (我にふれるな)」といさめられた有名な言葉です。その情景は、宗教画にも多く描かれています。

 

・リサールは、これから復活するフィリピンと比喩して使った表題です。

★・聖書ヨハネによる福音書20章1節、11-18節から (イエスの復活)

 

・さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリアが墓に行くと墓から石がとりのけてあるのを見た。
・マリアは、墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、また身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着た2人の御使がいた。
・イエスの死体の置かれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方にすわっているのを見た。

 

・すると、彼らはマリアに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。
・マリアは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。どこに置いたのかわからないのです」。
・そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。
・しかし、マリアは、それがイエスであることに気がつかなかった。

 

・イエスは言われた、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
・マリアは、その人が墓の番人だと思って言った、
・「もし、あなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります。」・イエスは、マリアよと言われた。
・マリアはふり返って、イエスにむかって「ラボニ」と言った。(ヘブライ語で先生という意味)
・イエスは、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上がっていないのだから。」と、マリアに言った。

■・マグダラのマリアとは


・マグダラのマリアが聖書に登場する場面は多くありません。
・彼女は「ガリラヤから来た婦人たちの1人」として位置づけられていますが、イエスの「死と復活」の場面で登場する重要な人物です。

 

1.十字架かけられたイエスを見守るマリア
2.埋葬の立ち合いの1人としてのマリア
3.復活したイエスと最初に出会ったマリア

 

・イエスが十字架で処刑されるとき最後まで添い、イエスの安息日が終わった翌日に朝早く墓に行ったのは、12の弟子たちではなく、マグダラのマリアです。そしてイエスの復活を最初に見たのは、マクダラのマリアだけです。
・つまり、イエスの伝道で最も重要な「十字架で死ぬ時と復活の時」に、イエスに付き添ったのは、マグダラのマリアなのに、なぜか聖書は、この重要な「マクダラのマリア」については詳しく書いていない。