5 流刑地生活

    -流刑地の生活-

■・フィリピンは、北にルソン島と南にミンダナオ島の大きな2つ島があり、その間に7,000余りの中小の島々があります。
・ホセ・リサールは、南の島ミンダナオ島の北西部の寒村「ダビタン」に4年間流刑される。

 

・ダビタンでの生活は、比較的自由で医者及び農学者として医療奉仕のかたわら、農業の指導や村の子供達に教室をつくり熱心に教育指導した。
・ヨーロッパで身につけた知識や技術を惜しみなく住民に伝えたのです。
・さらに、珍しい昆虫や植物、生物の採取にも出かけ新種のトカゲや昆虫や植物を発見して、ドイツに送っています。
・また、ヨーロッパの学者からは、昆虫調査の依頼、フィリピンの火山調査の依頼、フイリピン方言の比較研究の依頼などがあり、リサールが必要とする研究書なども送られて来ています。

 

・生活は、午前中は医療、午後は子供達に教育というように子供達の教育に力を入れていた。
国の発展は、「教育で人をつくることが最も大事である」と考えていたからです。
・教え子達はその後、各方面で活躍し県知事を勤めた者もいました。 

 

・1893年10月、母親テオドラと妹トリニダードが、はるばるルソン島からやって来て、12月のクリスマスをともに過ごします。

 

・ダビタンでのリサールのこのような奉仕活動は、県の歴代の知事をはじめ監視立場のスペイン軍司令官にも称賛をうけ、住民達からも大きな敬愛を受けていました。

 

■・1896年9月2日、4年間の刑期を終えたリサールは、軍医としてスペイン領キューバ勤務となり、スペイン軍艦「カスティリア」号に乗りマニラを出港する。

 

・行く途中で、フィリピンで「アギナルドの革命騒動」が起こり、その責任者がリサールであるとの嫌疑がかかり、至急帰国せよとの命令が出される。

 

・リサールは拘束されて、マニラの「フェルサ・デ・サンティアゴ」刑務所に移された。
・1896年12月26日、フィリピン民衆に対して独立をうながす思想、宗教組織を放逐する思想、反スペイン的思想の罪でスペイン政府に対する「反逆罪」として死刑を宣告された。
・この決定には、彼の敵が陰で政府と教会に働きかけていました。

 

・処刑の前日、見舞いに来た妹トリニダードに「これは形見だ。中に何かが入っているからね」と、そっと言いながら、1個のアルコールランプを手渡した。
・そのランプの中に、しわくちゃになった小さな紙片に細かい字でぎっしりと詩文が書かれていた。
・それが有名な「別れの挨拶」です。

 

★1896年12月30日、フィリピンのマニラ浜で、35歳の若さで処刑されました。


■・フィリピンの若き革命啓蒙思想家「ホセ・リサール」は、マニラ浜で祖国の自由と自立を願い命をささげました。・フィリピン社会のみならずアジアにおいても偉大な思想家でした。
・1898年、スペインと米国の「米西戦争」が起こり、アギナルドが革命軍を指揮いて国内で闘争を開始した。
・1899年、革命に成功し「フィリピン第一共和国」のアギナルド大統領によつて、12月30日を「リサールの日」とし、フィリピン人に忘れられない英雄として高く評価しマニラに記念碑が建てられました。
・ホセ・リサールの2つの小説 『ノリ・メ・タンヘレとエル・フィリブステリスモ』 が、火をつけた革命でした。
■・その後フィリピンは、スペインとアメリカとの密約により米国軍が侵入、約50年間アメリカの支配下に置かれます。
・1941年、日本軍がフィリピンに侵攻、約5年間日本軍の統治下に入ります。
・1946年7月4日、やっと民族自立による「フィリピン共和国」が誕生しました。

・1521年のマゼランから約350年間スペインの植民地として、その後アメリカの植民地として約50年間、日本軍統治下で約5年間、併せて約400年間の他民族に支配され続けた歴史でした

・ホセ・リサールが残した功績は、フィリピン社会に「民族の自立自尊」の大切さを伝えたことです。
・フィリピン人は、リサールに影響されて独立革命が始まった1898年6月12日を独立記念日に。
・革命政府が樹立した「フィリピン共和国宣言」の1899年1月23日を建国記念日としています。

 

-スペインのフィリピン支配-

 

■・スペインのフィリピン支配は、1521年4月7日スペイン艦隊がセブ島に到着したことから始まる。
・フェルディナンド・マゼランが率いたスペインの艦隊が、1522年に史上初の世界一周を成し遂げ彼は歴史上の英雄とされている。

 

・世界一周の航海の途中、セブ島民から厚遇を受け不足していた食糧と水を補給し、目的地の香料諸島へ向かえば良かったが、彼は島民を力でカトリック教に改宗し、従わない物には武力を使って改宗とスペイン王への服従と貢ぎ物を強要した人物です。

 

・対岸の小島マクタン島の王「ラプ=ラプ王」は、その要求に従わず反旗を掲げ、竹槍で甲冑で武装したマゼランたちスペイン兵と戦う。この戦いで「マゼランは戦死」する。

 

■・その後、1543年スペイン艦隊が再び現れフィリピン諸島を占領した。
・植民地名をフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)の名を取って(Las Islas Felipinas) フェリペナス諸島と命名した「フィリピン」の国名である。

 

・それから、スペインのフィリピン支配が約350年間続くのです。
軍隊の後には、スペイン政府と教会が続き、そして、スペイン人の入植がはじまる。
・人々の土地は没収され、人々はカトリック教へ改宗され、スペイン王への服従と献上をその後、350年余り強要されました。

 

★ホセ・リサールは、この現実を「自ら学び考え」アジアで最初の「民族の独立」の大切さを唱えて登場した思想家です。

 

・彼の啓蒙書 『ノリ・メ・タンヘレ (我に触るな,1887)』 は、植民地支配下のフィリピンにおける諸問題を厳しく告発するものであり、その後のフィリピンの民族闘争に火をつけました。